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そろそろ1月も終わりなのだが

あるジャズバーに行って、演奏が終わった後も、いろいろな人がやってきて、マスターとカウンター席の数人で雑談になった。もちろん臨床の現場は私にとって真剣勝負の場であるが、いろいろ、よもやま話をしたり、そこから世の中について生きることについて考えることも間接的に精神科と精神分析の臨床に役立つ。雑談は遊びであり気分転換の場であるが、どこかで仕事にもつながっている。これは当たり前と言えば当たり前のことで、仕事、余暇、遊び、趣味などを完全に分けられるわけでもない。たとえば、声楽家で耳鼻科医という方もいらっしゃるらしい。もちろん、そのドクターが歌手に大いに頼りにされるていることは疑いようがない。今をときめくジャズミュージシャンのK氏は、神経症になり精神分析を受け気功をやったのだそうだ。なおこのことは、K氏がエッセイに書いたり、ラジオ等で自ら話されていることなので、公にされていることである。逆に言えば、自分の病気のこと、治療のことも、書いたり話す種になるということである。そして、この私のブログは精神分析がテーマではあるが、ジャズのことも「気」のことも今まで書いてきている。

高校のクラス会もあった。ここ数年、毎年1月に都内で開催されている。いつも同じ人が幹事をやりみんなにメールを出して出席を確認している。感謝に耐えない。私なぞは1回たりともそんな役はつとまりそうにない。クラス会では、一人一人が近況報告をした。私はジャズ鑑賞が趣味であることと、1年少し前からジャズヴォーカルもやり出したことを話した。そして、気分転換や趣味が大事で、自分に合ったものをやるとよい、と言ってみた。これがなかなか受けたようだった。ジャズが昔から好きなんだと語ってくれた友人もいた。彼は仕事でニューヨークにいて、たまたまジャズバーに入ったら、隣にレコードジャケットで見たことのある人が座っていた。思いきって話したら、なんと伝説的な名ドラマーのアート・ブレイキーご本人だったという。握手もしてもらったのだそうだ。

握手と言えば、私は、ヘレン・メリルさんという大御所のジャズシンガーに握手をしてもらったことがある。ライブ演奏を終えて、楽屋に帰る途中、こちらから手を差し出したのである。歩きながらだからほんの短い時間ではあったが、何十年ものジャズ人生のエネルギーを手から感じた。そして、先日は、ピアノの大御所、菅野邦彦さんに握手をしてもらった。鎌倉のダフネというジャズライブの名店での演奏は涙が滲んでくるほど素晴らしく、菅野さんも当日の演奏はのっていて、通常のライブよりずいぶん長く演奏されて終演は23時半頃になったのである。控え席に戻られる通路のところで一度。そして、会計を払い帰るときに二度目。しかも、菅野さんの方から手を差し出して頂いたのである。まったくもってジャズファン冥利につきる。菅野さんは現在81歳である。共演者もついていくのが大変だったと同情してしまうほどのエネルギッシュな演奏を長時間されていた。

話はクラス会に戻る。近況報告で、健康の大切さを力説した友人がいた。まさにその通りである。私の年齢になると、既に亡くなっている同級生もいるし、生死の際まで行って、踏みとどまった人もいる。健康を保つにはどういうことに気をつければよいのか、と自分なりに考えてみると、栄養、運動、休養、の3要素ということなるのではないかと思う。運動は、体の運動もあるし、頭を使うというのも広い意味での運動になるだろう。どうぞ、読者の皆さまも、健康に注意して、あるいは持病のある方はうまく付き合って、今年をよい年にしてください。
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謹賀新年 2018

新年となりました。
と思ったら、もう1週間。
本年もよろしくお願いいたします。

このブログは思いついたことを綴っているだけで、あらたまって何かを主張をしようとか、論陣を張ろうというものではありませんが、気軽に読んで頂いて考えるヒントになるようでしたら幸いです。一応は精神分析と精神医学を念頭においた上での思いつきですが、どちらの分野も、生きる、ということにつながる幅広い分野なので、特に専門的知識がなくても読んで頂けると思います。

先日、友人と話していて、今年の目標は何かと聞かれました。特に決めていません。決めるよりも前に、何も考えていません。なんとなくふらふらと、自然に、急ぎすぎもせず、サボりすぎもせず、いつの間にか、あれっ、けっこう充実していろいろなことができたなあと振り返れる年にしたいと思います。果たしてそういう年になるのか?楽しみにしつつ、日々を送りたいと思います。
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雑ではない雑談

私は月1回の精神科デイケアの集団精神療法にスタッフの一人として参加している。何かテーマを決めるということはなく、その場で思いついたことを話してもらう。その時、その時で、雰囲気がちがったり、なかなか味わい深い展開になって、その時間が気に入っている。12月、今年の最終回では、今年を振り返るという話になり、私は草間彌生の展覧会に行ったことが印象深かったことを話した。絵画や歌などの話題につながり、なかなか意義深い話になった。

そもそも自由連想は思いついたことを話すので、一見すると雑談に近いところがある。だが、そこから世の中のこと、自分の性格や行動のこと、自分が考えていたこととは別の視点もあるということなどを、考える契機となるというところがミソなのである。別に精神分析だとか精神療法と堅苦しく考えなくても、ふだんの雑談でもそういう展開となることはあるだろうし、話すということでのカタルシス効果が得られることもあるに違いない。

インターネットでは、過激な発言をしたり、状況から考えてやらせとは思えないことにやらせだと囃し立てたり、まったく思考力がないと思われるワンパターン的な誹謗中傷が見られる。そういう現象がけしからんとか、フィルターのようなものを作って過激な発言は流布しないよう規制しようなとという話を聞く。だが、その背景を考えてみると、もしかしたら、雑談の機会というものが昔より減っているのではないか、という連想が湧いてくる。

数十年前は、会社の交際費というのが今より大幅に認められていた。会社員は、けっこうそういう金を使って飲食をしていた。あるいは、自腹で飲んでも会社からタクシー券をもらって帰宅したりと公私混同のようなこともあっただろう。飲みに言って、愚痴を言うなどという機会も今より昔の方が多かったのではないか。

話が逸れてきたので戻そう。一言に雑談というが、雑という文字からは、たいしたことがないと下手をすると軽く見られそうな、雑談。それにも相当の効用があるのではないだろうか。昔は、直接会ったり電話をしたり、あるいは自分の書く文字で手紙を書くなどして、人と人との交流が成り立っていた。今は、SNS やメールがコミュニケーションのかなり多くの部分を占める。実際、SNS でのやり取りはあるがまだ実際には会ったことがないという友人を持っているひとは多い。昔はペンパルという文通友だちがいたじゃないかという意見も出てるかもしれないが、ワープロもパソコンもない時代では手書きの手紙で、それなりにその人らしさは伝達されていたのである。今は、文字はフォントを変えることはできても文字はお仕着せのものである。写真も、加工が可能である。直に交流するのではなく、何か作り物を介しての交流という度合が強くなっている。

パソコンやスマホを離れ、直接話す。そのことの意義は今まで以上に大きくなっているのではないだろうか。最初から何かだいそれた目的がなくてもいいのである。今はマニュアル社会になってしまって、目的、手段、方法、結果をきっちり描かないといけない、というような風潮になっているが、人と直に会って何気なく雑談、駄弁る、ということがあってもいい。けっしてそれは雑なことではなく、意味のあることだという逆説が存在すると思うのだ。
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合掌

ラカン派のベテラン精神分析家の Serge Cottet 氏が先日亡くなった。そういう知らせを聞いたかと思ったら、今度はジャック・ラカンの娘の Judhith Miller 氏が亡くなったという知らせが入った。私自身は、両氏ともお見かけしたことはあるが直接話したことはないので何か個人的な思い出があるというわけではないが、日本のラカン精神分析の関係者では交流のあった方々もいるので、その悲しみ、残念な思いを聞き知ることがあるこの頃である。お二人が今まで精神分析を牽引されてきたご尽力に敬意を表したい。

私が初めてラカンの存在を知ったのは、彼が亡くなり、ある日本の雑誌に追悼特集として取り上げられた時のことだった。かれこれ30数年前のことだが、そろそろラカンに直に接した世代が亡くなってきたということになる。感慨深いものがあると同時に、私なりに精神分析に貢献しなければと身の引き締まる思いもしてくる。



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せいしんぶんせき

2015年の3月末にいったん運営休止になっていた、神奈川県のピースハウス病院というホスピスのことは、当時このブログでも話題にした。その後、無事に再開されているようである。ようであると言うのは、現地に行ったりスタッフと直接話したというわけではないが、だいぶ前にホームページで再開されていることを知ったのである。なんと言ってもこの分野の日本での草分けであるし、研究所も併設されているので、ぜひとも存続してほしかったのでほっとした気持ちだ。

私が精神科医として関わっている患者さんは、高齢の方がけっこうおられる。80代、90代、そして以前の話だが100歳を迎えられた方もおられた。健康で長生きできればそれにこしたことはないが、病気や障害で苦労しながら生きていくということもやむを得ない。ものごと、なかなか願望や理想通りとはいかない。どんな境遇があるにしても、少なくとも、まあこんなもんでいいんじゃないの、と思って晩年を迎えたいものである。そのために、私は精神分析を活用したい。活用というと功利的であまりよい表現ではないが、自分の精神分析をさらに前へ進め、そして人々が精神分析を体験できるよう、直接あるいは間接的であっても支援したい、ということである。

今年も残りわずかとなり、今後のことを思ったりなどして、今日はこういう連想になったのだろう。

学会や研究会のシーズンもそろそろ終わりで、年内のスケジュールとして私にとって最後となるのは、日本ラカン協会の17回大会(2017年12月17日開催)である。会場は東京の専修大学。シンポジウムのテーマは「エディプス以後」となっている。
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書いているうちに本(発達障害)の話になった

このブログを始めたのが2012年10月なので、5年が経過した。と言っても、私は何事も地味に地道にやっていくのが信条なので、そんなにこのことを大きく取り上げようというわけではない。ただ、もう5年経ったのかと思うと意外な気もする。そして、以前、精神分析を学ぶために豪州に渡り帰国して日本での仕事を再開したのが2007年11月だったので、それから丁度10年になる。10年という年月を思うと、意外というより信じ難いという気持ちになる。このブログも当初は豪州での体験に関連した記事を割と多く書いた記憶がある。ブログの記事自体もどういう文体で書いたらいいやらわからず、私はダジャレが好きなのでダジャレや語呂合わせのようなことも文章に織り込んだが、あまりダジャレが多いと品位が下がるという知人からの意見もあり、段々とダジャレは少なくなってしまった。ダジャレは頭の体操にもなってよいと思うのだが、あまりそういう練習をしていないと段々と浮かびにくくなる。ダジャレは自分の頭で考えているだけではバカバカしくなるので、話したり書いたりするいわば発表の場があった方がよいのである。そういう意味ではダジャレをあまり書かないようにするのは個人的にはマイナス面もある。ただ、初めてこのブログを見た人がダジャレ連発を見て、私のことをふざけた人だと思われても確かに困るし、どの程度書くかは難しいところである。

ダジャレや語呂合わせと聞くと精神分析とは関係ないように思われるかもしれないが、実はフロイトは注目していて論文でもかなりの分量を割いているのである。このことは以前、記事として書いたと思うが、記事数が多くなると私自身いつ書いたのかも思い出せない。

先日、学会に行ったことを書いたが、今日は実はその時に会場に設けられた書籍売り場で買った本について書こうかと思った。ところが、その本が見当たらないので、題名すら紹介することができない。情けない話である。ところが、その代りとしてと言うとなんなのだが、おもしろそうな本を見つけた。数か月前に買ったものの読まずに埋もれていた本である。まだ読んでいないのでこんな本ですと紹介することもできないのであるが、題名からするとラカン派精神分析の視点から発達障害について書かれた本のようである。編著者は上尾真道氏と牧瀬英幹氏で、「発達障害の時代とラカン派精神分析ー<開かれ>としての自閉をめぐって」(晃洋書房)という本である。めくってみたところでは、学術論文のようには堅苦しくなく気軽に読めそうだし、発達障害は最近あまりに強調されすぎているのではと思われるほどの流行りのトピックなので、読んでみようと思う。

ということで、自由連想風と言おうか、最初にこんな感じでと思っていたのとは全然違う話になってしまった。買っただけで読んでもいない本を紹介するというのも、このブログらしい。読者からしたらそんなの意味がないではないかと思われるかもしれない。だが、私としては買ったものを何も考えずにめちゃくちゃに紹介しているわけではない。読む前にこの本はおもしろそうだとか役に立ちそうだとか参考になりそうだとか、なにか考えるヒントになりそうだとか、等々、予想をしてみるということはとても大事なことだと思う。言ってみれば勘を働かせるということである。そして少なくとも私から見ると読んでよかったなと思える本を取り上げたい。もちろん、読者の皆さんもそれぞれの興味関心が違うと思うので大いに勘を働かせて頂ければ幸いである。
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旅ふたつ

先週末は日本精神分析学会が名古屋で開催され、参加してきた。あるセミナーではフランスの精神分析家ラプランシュが取り上げられた。主著である「精神分析用語辞典」は持っているが、他にあまり知識はなかったので大変勉強になった。討論ではラカンの話がけっこう出た。ラプランシュ自身、ラカンの分析を受けながら後にラカンを離れているのだが、フランスの精神分析はラカン派でなくてもラカンの影響はやはり大きいことが思い起こされた。その他のセミナーや演題も大いに刺激になった。久しぶりにお会いする知人も何人かいて懐かしかった。

その前の週末は私の出身大学のテニス部のOB会があり、これまた泊まりがけで出かけていたので、結果的に2週続きの小旅行となった。この際も懐かしい人々に久しぶりに会った。ふだん会う人は限られているが、久しぶりに人に会うと、いろいろな人との出会いがあり刺激を受けたりお世話になってきたのだとあらためて思う。

自分にとっては、精神分析や精神医学の修行は昔テニスを一生懸命やっていたこととつながっている。ある一つのことはそれだけでは完結しないのである。そう言えば、ラプランシュはワイン業を営んでいたそうだが、よいワインを作るのは精神分析家の仕事にも通じることだろう。ワインとは、いきなり作りあげられるものではない。ぶどうがワインになっていくのである。ワインそのものを人間が無から作りあげるのではない。細心の注意を払い根気強い作業があってよいワインになっていく。精神分析の過程もそうだ。精神分析を通じてある人が最後には別人のようになる。それは、精神分析主体がそのようになるのを、見守ったり限られた範囲での援助をするだけである。大地、日の光、水、空気、気候、そういったものに比べたらワインを作る人間は無力と言ってもいいくらいである。


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このところのことあれこれ

本当にいろいろなことが慌ただしく過ぎていく。しばらく前のことになってしまったが、高校の同窓会があった。クラス会はここ数年は年に1回開催されているが、今回は学年会だった。この年になってくると、亡くなっている人もいるし、仕事を早期退職して新しい一歩を踏み出したという人もいる。たとえば、山の中でペンションを経営している人、世界各地をバックパッカーの旅で回っている人などの話を聞いた。やりたいことがあればそのうちになどと言っていると、結局は体力もなくなりできなくなる。それよりは、思い切ってやってみた方がよいということだ。ただ、やりたいことがないようなら、無理してやめず仕事にしがみつくというのもよいかもしれない、という話だった。人それぞれの人生があるのだと、いろいろと考えさせられた。

クラス会の次の週は友人の結婚式。私は堅苦しい場が嫌いで滅多なことでは結婚式などの式典には出ない。とは言え、今回は親しい人であり、またいろいろな偶然が重なって出会った縁のある人だったので、喜んで出席した。いろいろと趣向を凝らし配慮がなされていて、堅苦しい場が苦手な私にも居心地のよい楽しい時を過ごすことができた。何事も工夫ということが大切だということを考えさせられた。

次の週末はラカン協会のワークショップ。提示者は2人で、どちらも知識を提示するというよりは、素材を提示してそれをもとに参加者も一緒に考え討論していく形になった。いろいろなことが連想され、私も討論では発言して、充実した時間を過ごせた。発表を聞きながら私の頭にあったことがある。話は私が豪州に渡り精神分析の研究と研修をした時期に遡る。かねてから私は学会などの討論の時間に、質問者が演者に「これこれについてお教えください」というよくある質問に辟易していた。そういう質問が必ずしも悪いわけではないが、討論の時間というのは、知識を演者から聴衆に伝達する時間ではないだろう。単に知識を得るのであれば、本を読んだり、レクチャーを受ければよい。本当の意味での討論にならないのではないだろうか?ところが、豪州での研究会やカンファレンスでは、「一つの問いを立ててみたいと思います」という言葉に続いて、参加している者の連想を刺激したり思考に一つの考える道筋の光を投げかけてくれるような、問いが提言される。実際、それによって討論が活性化されるというのをしばしば経験した。以来、私はそういう場でのみならず、自分だけで何かを考える際にも、問いを立ててみるということをやってみることに自然となっていった。

「問いを立てる」ということを表向き言うか言わないかにかかわらず、問いを立ててみること。それによって、思考が柔軟になっておもしろいアイディアが出てきたり、考えているうちに本質的なことに行きあたったりするようになる。すなわち、問いの直接的な答を探すことに汲々としなければならないというわけではないのである。

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サントーム、その他、自分なりに考えみるということ

フランスから精神分析家が来日して、研究会が開催された。私以外はフランス語が達者な人ばかりの参加のため、発表および討論はフランス語で行われた。要点は通訳してもらったが、やはりこういう時はフランス語能力をつけたいものだと思うのだが、結局は勉強しないまま次の機会がやって来てしまう。毎回のように自分の怠惰にあきれてしまう。

発表はサントームについてであった。私の理解は部分的なものだったが、通訳を介して質問してみた。そのうちの一つは精神分析の経過の中でサントームが変化するというところまでは同意するが、ではその変化は連続的なものなのか、非連続すなわち飛び越えて変わるものなのか、ということである。普通に考えれば3界の3つの輪を4つ目のサントームが結びつけるという例の図を考えれば、連続的であることの可能性を想定すること自体、妙な質問かもしれない。ラカンの著書を読みラカンの言っていることをどう解釈するかという視点からはこの疑問は出てこないだろう。だが、臨床を考えるとセッションの積み重ねというのは重要である。ケースの検討において、ある言葉の使用や問いかけによって、がらりと主体の在りようが変わったという発表はあり得るが、それは契機としてはわかりやすいが、その変化が起こるまでにセッションの積み重ねがあり、その準備があってこそ、ある時に目立った変化が起こるのだと私は思う。だとすれば、サントームの連続的な変化がなくてある時、突如変わってしまうというのは、違和感がある。そういう意味では見かけ上の変化はなくても、波動で考えればよいのか粒子で考えればいいのかわからないが、とにかくある種の微小な動揺のようなものが変わっていって、ある時、大きな見かけ上の変化が起こると考えることはできないのか、ということなのである。踏み込んだ討論はできなかったが、単にサントームが非連続に変わるというのは、臨床感覚からは粗雑な考えのように感じるのである。

恐らく上記のような疑問についてラカン派内でも議論されたことはないのではないのだろうか?少なくとも私はセミナー等で聞いたり、本や論文で読んだことはない。ばかばかしい疑問だと思う人もいるだろうが、臨床の側面から思考している私としては、けっこう大きな問題なのである。

変化とは、どのようにして起こるのであろうか?
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秋です

9月に入ったなあと思っていたら、もうあと1週間で9月も終わる。最近はだいぶ日暮れが早くなってきた。秋と言えば食欲の秋とか読書の秋とか言われる。旬のおいしいものを食べて勉強に励みたいものだ。

秋は学会やワークショップ、その他研究会や学術的な催しがよく開かれシーズンと言える。10月15日は日本ラカン協会のワークショップで、タイトルは「エディプスと女性的なるもの」である。提題者2名ともに女性であり臨床家であるというのも徹底している。と、協会の活動に関わっているから言うわけではないが、個人的にも今から待ち遠しい企画である。そして、同協会のホームページのワークショップの案内にある「詳細」をクリックすると司会の立木康介氏が書かれた紹介文が現れる。紹介としてはけっこう長く、去勢、享楽の問題や分析の終結の問題、フロイトとラカンの違いなど、この紹介文自体が学術的エッセイとなっている。精神分析を学ばれている方にはぜひ読んでいただきたい。

このワークショップ以外にも海外からの分析家が来日するということも聞いているし、なかなかおもしろそうな企画の研究会の情報も得ている。読みかけていて中断した本を読み通すのも役に立ちそうだし、いろいろ興味深い催しが多く、厭きない秋になりそうだ。
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