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合掌

ラカン派のベテラン精神分析家の Serge Cottet 氏が先日亡くなった。そういう知らせを聞いたかと思ったら、今度はジャック・ラカンの娘の Judhith Miller 氏が亡くなったという知らせが入った。私自身は、両氏ともお見かけしたことはあるが直接話したことはないので何か個人的な思い出があるというわけではないが、日本のラカン精神分析の関係者では交流のあった方々もいるので、その悲しみ、残念な思いを聞き知ることがあるこの頃である。お二人が今まで精神分析を牽引されてきたご尽力に敬意を表したい。

私が初めてラカンの存在を知ったのは、彼が亡くなり、ある日本の雑誌に追悼特集として取り上げられた時のことだった。かれこれ30数年前のことだが、そろそろラカンに直に接した世代が亡くなってきたということになる。感慨深いものがあると同時に、私なりに精神分析に貢献しなければと身の引き締まる思いもしてくる。



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せいしんぶんせき

2015年の3月末にいったん運営休止になっていた、神奈川県のピースハウス病院というホスピスのことは、当時このブログでも話題にした。その後、無事に再開されているようである。ようであると言うのは、現地に行ったりスタッフと直接話したというわけではないが、だいぶ前にホームページで再開されていることを知ったのである。なんと言ってもこの分野の日本での草分けであるし、研究所も併設されているので、ぜひとも存続してほしかったのでほっとした気持ちだ。

私が精神科医として関わっている患者さんは、高齢の方がけっこうおられる。80代、90代、そして以前の話だが100歳を迎えられた方もおられた。健康で長生きできればそれにこしたことはないが、病気や障害で苦労しながら生きていくということもやむを得ない。ものごと、なかなか願望や理想通りとはいかない。どんな境遇があるにしても、少なくとも、まあこんなもんでいいんじゃないの、と思って晩年を迎えたいものである。そのために、私は精神分析を活用したい。活用というと功利的であまりよい表現ではないが、自分の精神分析をさらに前へ進め、そして人々が精神分析を体験できるよう、直接あるいは間接的であっても支援したい、ということである。

今年も残りわずかとなり、今後のことを思ったりなどして、今日はこういう連想になったのだろう。

学会や研究会のシーズンもそろそろ終わりで、年内のスケジュールとして私にとって最後となるのは、日本ラカン協会の17回大会(2017年12月17日開催)である。会場は東京の専修大学。シンポジウムのテーマは「エディプス以後」となっている。
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書いているうちに本(発達障害)の話になった

このブログを始めたのが2012年10月なので、5年が経過した。と言っても、私は何事も地味に地道にやっていくのが信条なので、そんなにこのことを大きく取り上げようというわけではない。ただ、もう5年経ったのかと思うと意外な気もする。そして、以前、精神分析を学ぶために豪州に渡り帰国して日本での仕事を再開したのが2007年11月だったので、それから丁度10年になる。10年という年月を思うと、意外というより信じ難いという気持ちになる。このブログも当初は豪州での体験に関連した記事を割と多く書いた記憶がある。ブログの記事自体もどういう文体で書いたらいいやらわからず、私はダジャレが好きなのでダジャレや語呂合わせのようなことも文章に織り込んだが、あまりダジャレが多いと品位が下がるという知人からの意見もあり、段々とダジャレは少なくなってしまった。ダジャレは頭の体操にもなってよいと思うのだが、あまりそういう練習をしていないと段々と浮かびにくくなる。ダジャレは自分の頭で考えているだけではバカバカしくなるので、話したり書いたりするいわば発表の場があった方がよいのである。そういう意味ではダジャレをあまり書かないようにするのは個人的にはマイナス面もある。ただ、初めてこのブログを見た人がダジャレ連発を見て、私のことをふざけた人だと思われても確かに困るし、どの程度書くかは難しいところである。

ダジャレや語呂合わせと聞くと精神分析とは関係ないように思われるかもしれないが、実はフロイトは注目していて論文でもかなりの分量を割いているのである。このことは以前、記事として書いたと思うが、記事数が多くなると私自身いつ書いたのかも思い出せない。

先日、学会に行ったことを書いたが、今日は実はその時に会場に設けられた書籍売り場で買った本について書こうかと思った。ところが、その本が見当たらないので、題名すら紹介することができない。情けない話である。ところが、その代りとしてと言うとなんなのだが、おもしろそうな本を見つけた。数か月前に買ったものの読まずに埋もれていた本である。まだ読んでいないのでこんな本ですと紹介することもできないのであるが、題名からするとラカン派精神分析の視点から発達障害について書かれた本のようである。編著者は上尾真道氏と牧瀬英幹氏で、「発達障害の時代とラカン派精神分析ー<開かれ>としての自閉をめぐって」(晃洋書房)という本である。めくってみたところでは、学術論文のようには堅苦しくなく気軽に読めそうだし、発達障害は最近あまりに強調されすぎているのではと思われるほどの流行りのトピックなので、読んでみようと思う。

ということで、自由連想風と言おうか、最初にこんな感じでと思っていたのとは全然違う話になってしまった。買っただけで読んでもいない本を紹介するというのも、このブログらしい。読者からしたらそんなの意味がないではないかと思われるかもしれない。だが、私としては買ったものを何も考えずにめちゃくちゃに紹介しているわけではない。読む前にこの本はおもしろそうだとか役に立ちそうだとか参考になりそうだとか、なにか考えるヒントになりそうだとか、等々、予想をしてみるということはとても大事なことだと思う。言ってみれば勘を働かせるということである。そして少なくとも私から見ると読んでよかったなと思える本を取り上げたい。もちろん、読者の皆さんもそれぞれの興味関心が違うと思うので大いに勘を働かせて頂ければ幸いである。
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旅ふたつ

先週末は日本精神分析学会が名古屋で開催され、参加してきた。あるセミナーではフランスの精神分析家ラプランシュが取り上げられた。主著である「精神分析用語辞典」は持っているが、他にあまり知識はなかったので大変勉強になった。討論ではラカンの話がけっこう出た。ラプランシュ自身、ラカンの分析を受けながら後にラカンを離れているのだが、フランスの精神分析はラカン派でなくてもラカンの影響はやはり大きいことが思い起こされた。その他のセミナーや演題も大いに刺激になった。久しぶりにお会いする知人も何人かいて懐かしかった。

その前の週末は私の出身大学のテニス部のOB会があり、これまた泊まりがけで出かけていたので、結果的に2週続きの小旅行となった。この際も懐かしい人々に久しぶりに会った。ふだん会う人は限られているが、久しぶりに人に会うと、いろいろな人との出会いがあり刺激を受けたりお世話になってきたのだとあらためて思う。

自分にとっては、精神分析や精神医学の修行は昔テニスを一生懸命やっていたこととつながっている。ある一つのことはそれだけでは完結しないのである。そう言えば、ラプランシュはワイン業を営んでいたそうだが、よいワインを作るのは精神分析家の仕事にも通じることだろう。ワインとは、いきなり作りあげられるものではない。ぶどうがワインになっていくのである。ワインそのものを人間が無から作りあげるのではない。細心の注意を払い根気強い作業があってよいワインになっていく。精神分析の過程もそうだ。精神分析を通じてある人が最後には別人のようになる。それは、精神分析主体がそのようになるのを、見守ったり限られた範囲での援助をするだけである。大地、日の光、水、空気、気候、そういったものに比べたらワインを作る人間は無力と言ってもいいくらいである。


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このところのことあれこれ

本当にいろいろなことが慌ただしく過ぎていく。しばらく前のことになってしまったが、高校の同窓会があった。クラス会はここ数年は年に1回開催されているが、今回は学年会だった。この年になってくると、亡くなっている人もいるし、仕事を早期退職して新しい一歩を踏み出したという人もいる。たとえば、山の中でペンションを経営している人、世界各地をバックパッカーの旅で回っている人などの話を聞いた。やりたいことがあればそのうちになどと言っていると、結局は体力もなくなりできなくなる。それよりは、思い切ってやってみた方がよいということだ。ただ、やりたいことがないようなら、無理してやめず仕事にしがみつくというのもよいかもしれない、という話だった。人それぞれの人生があるのだと、いろいろと考えさせられた。

クラス会の次の週は友人の結婚式。私は堅苦しい場が嫌いで滅多なことでは結婚式などの式典には出ない。とは言え、今回は親しい人であり、またいろいろな偶然が重なって出会った縁のある人だったので、喜んで出席した。いろいろと趣向を凝らし配慮がなされていて、堅苦しい場が苦手な私にも居心地のよい楽しい時を過ごすことができた。何事も工夫ということが大切だということを考えさせられた。

次の週末はラカン協会のワークショップ。提示者は2人で、どちらも知識を提示するというよりは、素材を提示してそれをもとに参加者も一緒に考え討論していく形になった。いろいろなことが連想され、私も討論では発言して、充実した時間を過ごせた。発表を聞きながら私の頭にあったことがある。話は私が豪州に渡り精神分析の研究と研修をした時期に遡る。かねてから私は学会などの討論の時間に、質問者が演者に「これこれについてお教えください」というよくある質問に辟易していた。そういう質問が必ずしも悪いわけではないが、討論の時間というのは、知識を演者から聴衆に伝達する時間ではないだろう。単に知識を得るのであれば、本を読んだり、レクチャーを受ければよい。本当の意味での討論にならないのではないだろうか?ところが、豪州での研究会やカンファレンスでは、「一つの問いを立ててみたいと思います」という言葉に続いて、参加している者の連想を刺激したり思考に一つの考える道筋の光を投げかけてくれるような、問いが提言される。実際、それによって討論が活性化されるというのをしばしば経験した。以来、私はそういう場でのみならず、自分だけで何かを考える際にも、問いを立ててみるということをやってみることに自然となっていった。

「問いを立てる」ということを表向き言うか言わないかにかかわらず、問いを立ててみること。それによって、思考が柔軟になっておもしろいアイディアが出てきたり、考えているうちに本質的なことに行きあたったりするようになる。すなわち、問いの直接的な答を探すことに汲々としなければならないというわけではないのである。

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サントーム、その他、自分なりに考えみるということ

フランスから精神分析家が来日して、研究会が開催された。私以外はフランス語が達者な人ばかりの参加のため、発表および討論はフランス語で行われた。要点は通訳してもらったが、やはりこういう時はフランス語能力をつけたいものだと思うのだが、結局は勉強しないまま次の機会がやって来てしまう。毎回のように自分の怠惰にあきれてしまう。

発表はサントームについてであった。私の理解は部分的なものだったが、通訳を介して質問してみた。そのうちの一つは精神分析の経過の中でサントームが変化するというところまでは同意するが、ではその変化は連続的なものなのか、非連続すなわち飛び越えて変わるものなのか、ということである。普通に考えれば3界の3つの輪を4つ目のサントームが結びつけるという例の図を考えれば、連続的であることの可能性を想定すること自体、妙な質問かもしれない。ラカンの著書を読みラカンの言っていることをどう解釈するかという視点からはこの疑問は出てこないだろう。だが、臨床を考えるとセッションの積み重ねというのは重要である。ケースの検討において、ある言葉の使用や問いかけによって、がらりと主体の在りようが変わったという発表はあり得るが、それは契機としてはわかりやすいが、その変化が起こるまでにセッションの積み重ねがあり、その準備があってこそ、ある時に目立った変化が起こるのだと私は思う。だとすれば、サントームの連続的な変化がなくてある時、突如変わってしまうというのは、違和感がある。そういう意味では見かけ上の変化はなくても、波動で考えればよいのか粒子で考えればいいのかわからないが、とにかくある種の微小な動揺のようなものが変わっていって、ある時、大きな見かけ上の変化が起こると考えることはできないのか、ということなのである。踏み込んだ討論はできなかったが、単にサントームが非連続に変わるというのは、臨床感覚からは粗雑な考えのように感じるのである。

恐らく上記のような疑問についてラカン派内でも議論されたことはないのではないのだろうか?少なくとも私はセミナー等で聞いたり、本や論文で読んだことはない。ばかばかしい疑問だと思う人もいるだろうが、臨床の側面から思考している私としては、けっこう大きな問題なのである。

変化とは、どのようにして起こるのであろうか?
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秋です

9月に入ったなあと思っていたら、もうあと1週間で9月も終わる。最近はだいぶ日暮れが早くなってきた。秋と言えば食欲の秋とか読書の秋とか言われる。旬のおいしいものを食べて勉強に励みたいものだ。

秋は学会やワークショップ、その他研究会や学術的な催しがよく開かれシーズンと言える。10月15日は日本ラカン協会のワークショップで、タイトルは「エディプスと女性的なるもの」である。提題者2名ともに女性であり臨床家であるというのも徹底している。と、協会の活動に関わっているから言うわけではないが、個人的にも今から待ち遠しい企画である。そして、同協会のホームページのワークショップの案内にある「詳細」をクリックすると司会の立木康介氏が書かれた紹介文が現れる。紹介としてはけっこう長く、去勢、享楽の問題や分析の終結の問題、フロイトとラカンの違いなど、この紹介文自体が学術的エッセイとなっている。精神分析を学ばれている方にはぜひ読んでいただきたい。

このワークショップ以外にも海外からの分析家が来日するということも聞いているし、なかなかおもしろそうな企画の研究会の情報も得ている。読みかけていて中断した本を読み通すのも役に立ちそうだし、いろいろ興味深い催しが多く、厭きない秋になりそうだ。
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狭くではなく広く考える:精神分析についても

私の一番の専門分野はと聞かれれば、精神分析ということになる。精神科の臨床では、一般外来での仕事をしているので、いろいろな疾患の方を診ている。

一見すると精神分析とは関係のない疾患や分野でも、精神分析が役に立つことはしばしばある。たとえば、認知症の患者さん。新患として来院されると、付添いの家族や施設の方が、こんなに会話が成立するとは、と驚かれることがある。単語すら出てこない場合は会話は難しくなるが、言葉の使い方がふつうとは違うというレベルであれば、会話することはさして困難ではない。たとえば、今、目の前にいる人が妻ということがわからないとしよう。だが、妻の方を見て「上等です」とか「立派です」と本人が述べたとする。それは、妻の概念が曖昧になっていたり、昔の妻の容貌しか覚えていないため今の妻と同一人物だと認識することができなかったりするなどして、妻であるということが理解できないと推測できよう。だが、自分が慣れ親しんだ人のようであり、いろいろと世話をしてくれる親切な人であるということはなんとなく雰囲気ではわかっている。その自分の感覚を「上等」とか「立派」という言葉を使って表現していると推測が可能である。そして、患者さんの言い方の雰囲気からは有り難い、感謝している、という気持ちが伝わってくることもある。ところが、妻は自分のことをもはや覚えていないとがっかりしている。もう何もわからない、言葉の通じない世界に行ってしまったのだと思いこんでいるのである。

確かに通常かわされるような会話は成立しにくくなっているのだろう。だからと言って、本人は何も理解していないわけではない。言葉がデジタルな世界だとすれば、アバウトな雰囲気の世界とも形容できようかアナログな世界に生きているのである。そこをわかってあげれば、本人の考えや言いたいこともある程度推測することが可能になるのである。

精神分析では「自由連想法」といって浮かんだことをそのまま話す作業をして、精神分析家はその話を聞く。まずはその話を自分の主観的判断を交えずにそのまま聞くのである。それに少し遅れて、言葉通りではない、別の意味が潜んでいるのではないかと連想を行う。そのまんま言葉そのものとして聞くことと、それを刺激に連想することを一瞬の時間差を持ちながら同時にやっていく。こういう作業をやっていることが、認知症の方とお話しする時にも役に立ってくるような気がする。

いつもより会話ができたり、いつもはぼーっとしているのにけっこうシャキッとした患者さんの態度に驚く付添いの方があまりに多い。私は老人精神医学は専門というほど学んだわけではないが、認知症に限らずお年寄りの方の対応がけっこううまくいってしまうのは、精神分析の訓練課程や臨床で培ったものが活きているのではないかと思う。その他にも精神分析を学んできた効用は多々ある。上記のことは一例である。精神分析は時代遅れだとか、訓練にやたら時間と金がかかるとか、批判はよくされるが、ピュアな精神分析以外の分野にも応用が効いたりよい波及効果が生まれるということは言っておきたい。そういう意味で精神分析家になろうという人以外で、自分の臨床能力を高めたいという人にも精神分析の実地臨床を学んだり経験を積んでもらえれば、精神科臨床や心理臨床に携わる方々のレベルアップになるのではと思う。
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研究会からの連想

昨日は精神分析の研究会だった。都内の会場に行く時に、突然の豪雨となり、一時、通りがかりのビルに入り避難した。雷も危険なので注意が必要だ。研究会ではいろいろと有意義な討論ができた。そのうちの一つの話題から連想することを以下に記しておこう。

一人の分析家が同じ家族の者を複数担当することは可能かという問題である。同じ家族とは、たとえば親子、夫婦、兄弟姉妹などである。私が精神分析および精神分析に基づく精神科臨床の研修を受け始めたのは数十年前になるが、その際には、同じ家族を一人が受け持つのは無理だからやめておくようにというのが上級者からの定型的なアドバイスであった。すなわち、別の分析家や治療者がそれぞれを担当するべきだということである。その当時は私も妥当なアドバイスだと思い以後もそれが定石だと思っていた。実際に、たとえば、ある人の分析を担当していて、経過中に自分の家族も担当してもらえないだろうかと言われ、お断りしたという経験はある。

私は後に豪州のメルボルンに行って精神分析の勉強を深めることになる。特にラカン派を中心として精神分析の研修と研究をしたのだが、ラカン派の精神分析家と討論するうちに、彼らが私が定石と思っていたことを気にしていないことに気がついた。たとえば、母と娘の分析家が同じだというケースについての話を聞いた時などは、一種の驚きを感じざるを得なかった。その後も、パリに短期間滞在した折に、私のパリ在の友人の知人の両親は昔、ラカンに精神分析を受けていた、などという話も聞いた。

他にもいろいろと同じ家族の複数の者の分析家が同じ人であるというケースを知り、決して特殊な例ではないということを知った。さて、自分が分析家として仕事をする場合にはどうなのだろうか?私がメルボルンに行ったばかりの時には、やろうとしても負担感が強くできなかったであろう。だが、日本に帰国してから、精神科および精神分析の臨床をする中で、以前のような抵抗感がなくなっているのに気づいた。実際、精神科の外来でも自分の個人の精神分析オフィスでも、同じ家族の複数名を担当することを経験している。私としては、そのことでのやりにくさやトラブルはさほど感じていない。

では、なぜ当初は定石と思われていたことが覆ったのだろうか?大きな要因として二つのことが考えられる。

一つは、分析というものは一人一人違うユニークなものであるということである。分析をやりきるというのは、その人の人生を生ききる、というのと同義である。たとえ親子、兄弟姉妹、夫婦であろうと、ある意味近い存在ではあろうが、人としてはまったく別の個体である。人は一人で生まれてきて一人で死んで行くのである。それと同じく、精神分析もまた別個のものなのである。このことが理屈ではなく本物の体験として得られているのか、それによって、同じ家族の複数名を担当できるかが決まってくる。そして、この、精神分析はそれぞれが違う唯一無二のものであるということをわかるかどうかは、個人分析の深まりとも大いに関係してくるだろう。

二つ目として、ラカン派の問題が関与しているかもしれない。かもしれない、とアヤフヤな表現になったのは、私自身、ラカン派以外の分析を受けたことがないから、あくまで推測で言うしかないからである。ラカン派精神分析は一般に分析家の「沈黙」が特徴とされる。分析を進めるのは分析家ではなく、分析主体(分析を受けている者)であるとされる。それぞれの分析家の個性はあるだろうが、一般的には他の学派に比べ、分析家からの介入が頻度とてしては少ない。セッションを時間で固定していないので、セッションを区切ることすら解釈であると言われている。セッションの間中、分析主体が話し、分析家の言葉はセッションの終わりを告げる時だけ、というようなセッションもあり得るのである。他の学派とも共通するような解釈を投げかけることもあるだろうが、少なくとも転移を直接的にあからさまな形で解釈するというやり方は好まれない。この点は、同じ家族に対して分析をするということが可能になるということに通じるのではないだろうか。たとえば、兄弟葛藤をそれぞれが持っているケースを仮定してみよう。分析のセッションで、兄は弟と張り合う話をやたらとする。弟は兄と張り合う話をやたらとする。ラカン派ではない学派では、おそらく同胞に対する気持ちを明確化したり、そこから見え隠れすることを直面化したりということになりそうだ。そういったことに焦点を当てて分析家もその話に聞き入るということになれば、あるケンカの双方からの視点を聞くような状況になり、分析家の方も混乱してくるのではないか?ラカン派の場合は、分析家が直接的な解釈を投与するのではなく、分析主体の側で解釈が自然と作動するように、解釈の契機あるいはヒントを与えるというような手法を取るとすれば、兄が弟がとあれこれ考えずにすむことになり、分析家の側が混乱するということはなくなってくる。

以上、ざっと思いついたことを記してみた。一つ付け加えたいのは、私は、同じ家族の複数の者の精神分析を担当することは可能である、と述べただけである。そのような要請や状況において、常に複数の分析を引き受けるべきであると述べたわけではない。それぞれの事例によって、別々の分析家としておいた方がよい場合もあるだろうし、あるいは、自分の感覚としてやりにくい場合には無理をして引き受けるには及ばないのである。
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夏です

8月となった。夏なのだが、今日はどんよりと曇っている。一方で蝉は鳴いている。気のせいかもしれないが、曇り空の下の蝉の声は侘しく感じる。電車はふだんより空いているいるようだが、大きな旅行かばんを持った人を目にする機会が多いのは、夏休みの季節なのかと思わされる。私は長期の休みは取らず、分散させて休もうと思っている。それにしても、知人でこのところ病気が悪化したり体調を崩したりという方がけっこうおられる。仕事や収入は大切だが、体調を整えることは優先的に考える必要があるだろう。とは言え、プレミアムフライデーというのだろうか、月に一度は早めに仕事を切り上げてなどという企画があるらしいのだが、みんなで同時に休もうと言っても無理があるのではないだろうか。それぞれの仕事によってペースは違う。レストランやカフェも人があふれるほど来てもらっても結局店に入れる人数は限られるし、できれば平均的にお客さんが入った方がよいのではないだろうか。しかも、従業員はそのタイミングで休みを取るのが難しくなりそうだ。そういう意味では、限定的にこの時にみんなで休みましょうというよりは、有休をそれぞれの人がもっと活用する方向性の方がよいのではないだろうか。

先日の日本ラカン協会のワークショップは発表も討論も充実していて勉強になった。フロイトのシュレーバー論文は以前、読んで自分の博士論文の素材にもなったのでいろいろと記憶が甦ってきて、討論の時にはコメントもしてみた。ヘルダーリンについては昔、ある精神病理学者の話を聞いたことがあったが、内容はほとんど忘れてしまったので、今回、発表を聞いて考えることが多々あった。次回、秋のワークショップは、今のところ10月15日(日)の予定だが、詳しいこと確かなことが決まれば、同協会のホームページに発表されるだろう。

8月か夏かということで連想と作文を始めてみたが、そろそろおしまいにしよう。いろいろやることもある。頂いた暑中見舞いの返事をやっと書いたので、後で投函しよう。さて書こうかと思うまで数日、そしてやおらハガキを探すまで数日、やっとのことで文面を書いたら、今度は切手がない。切手を買って、貼って。完成はしたのだが、まだ投函するところまでいかず手元にある。早い人なら1日、2日で書いて出すところを私は数週間。我ながら要領の悪さに辟易する。遅くなってしまい申し訳ないです。なお、仕事上の書類はこのようなことにはならずちゃんと書いております。



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