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サントーム、その他、自分なりに考えみるということ

フランスから精神分析家が来日して、研究会が開催された。私以外はフランス語が達者な人ばかりの参加のため、発表および討論はフランス語で行われた。要点は通訳してもらったが、やはりこういう時はフランス語能力をつけたいものだと思うのだが、結局は勉強しないまま次の機会がやって来てしまう。毎回のように自分の怠惰にあきれてしまう。

発表はサントームについてであった。私の理解は部分的なものだったが、通訳を介して質問してみた。そのうちの一つは精神分析の経過の中でサントームが変化するというところまでは同意するが、ではその変化は連続的なものなのか、非連続すなわち飛び越えて変わるものなのか、ということである。普通に考えれば3界の3つの輪を4つ目のサントームが結びつけるという例の図を考えれば、連続的であることの可能性を想定すること自体、妙な質問かもしれない。ラカンの著書を読みラカンの言っていることをどう解釈するかという視点からはこの疑問は出てこないだろう。だが、臨床を考えるとセッションの積み重ねというのは重要である。ケースの検討において、ある言葉の使用や問いかけによって、がらりと主体の在りようが変わったという発表はあり得るが、それは契機としてはわかりやすいが、その変化が起こるまでにセッションの積み重ねがあり、その準備があってこそ、ある時に目立った変化が起こるのだと私は思う。だとすれば、サントームの連続的な変化がなくてある時、突如変わってしまうというのは、違和感がある。そういう意味では見かけ上の変化はなくても、波動で考えればよいのか粒子で考えればいいのかわからないが、とにかくある種の微小な動揺のようなものが変わっていって、ある時、大きな見かけ上の変化が起こると考えることはできないのか、ということなのである。踏み込んだ討論はできなかったが、単にサントームが非連続に変わるというのは、臨床感覚からは粗雑な考えのように感じるのである。

恐らく上記のような疑問についてラカン派内でも議論されたことはないのではないのだろうか?少なくとも私はセミナー等で聞いたり、本や論文で読んだことはない。ばかばかしい疑問だと思う人もいるだろうが、臨床の側面から思考している私としては、けっこう大きな問題なのである。

変化とは、どのようにして起こるのであろうか?
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秋です

9月に入ったなあと思っていたら、もうあと1週間で9月も終わる。最近はだいぶ日暮れが早くなってきた。秋と言えば食欲の秋とか読書の秋とか言われる。旬のおいしいものを食べて勉強に励みたいものだ。

秋は学会やワークショップ、その他研究会や学術的な催しがよく開かれシーズンと言える。10月15日は日本ラカン協会のワークショップで、タイトルは「エディプスと女性的なるもの」である。提題者2名ともに女性であり臨床家であるというのも徹底している。と、協会の活動に関わっているから言うわけではないが、個人的にも今から待ち遠しい企画である。そして、同協会のホームページのワークショップの案内にある「詳細」をクリックすると司会の立木康介氏が書かれた紹介文が現れる。紹介としてはけっこう長く、去勢、享楽の問題や分析の終結の問題、フロイトとラカンの違いなど、この紹介文自体が学術的エッセイとなっている。精神分析を学ばれている方にはぜひ読んでいただきたい。

このワークショップ以外にも海外からの分析家が来日するということも聞いているし、なかなかおもしろそうな企画の研究会の情報も得ている。読みかけていて中断した本を読み通すのも役に立ちそうだし、いろいろ興味深い催しが多く、厭きない秋になりそうだ。
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狭くではなく広く考える:精神分析についても

私の一番の専門分野はと聞かれれば、精神分析ということになる。精神科の臨床では、一般外来での仕事をしているので、いろいろな疾患の方を診ている。

一見すると精神分析とは関係のない疾患や分野でも、精神分析が役に立つことはしばしばある。たとえば、認知症の患者さん。新患として来院されると、付添いの家族や施設の方が、こんなに会話が成立するとは、と驚かれることがある。単語すら出てこない場合は会話は難しくなるが、言葉の使い方がふつうとは違うというレベルであれば、会話することはさして困難ではない。たとえば、今、目の前にいる人が妻ということがわからないとしよう。だが、妻の方を見て「上等です」とか「立派です」と本人が述べたとする。それは、妻の概念が曖昧になっていたり、昔の妻の容貌しか覚えていないため今の妻と同一人物だと認識することができなかったりするなどして、妻であるということが理解できないと推測できよう。だが、自分が慣れ親しんだ人のようであり、いろいろと世話をしてくれる親切な人であるということはなんとなく雰囲気ではわかっている。その自分の感覚を「上等」とか「立派」という言葉を使って表現していると推測が可能である。そして、患者さんの言い方の雰囲気からは有り難い、感謝している、という気持ちが伝わってくることもある。ところが、妻は自分のことをもはや覚えていないとがっかりしている。もう何もわからない、言葉の通じない世界に行ってしまったのだと思いこんでいるのである。

確かに通常かわされるような会話は成立しにくくなっているのだろう。だからと言って、本人は何も理解していないわけではない。言葉がデジタルな世界だとすれば、アバウトな雰囲気の世界とも形容できようかアナログな世界に生きているのである。そこをわかってあげれば、本人の考えや言いたいこともある程度推測することが可能になるのである。

精神分析では「自由連想法」といって浮かんだことをそのまま話す作業をして、精神分析家はその話を聞く。まずはその話を自分の主観的判断を交えずにそのまま聞くのである。それに少し遅れて、言葉通りではない、別の意味が潜んでいるのではないかと連想を行う。そのまんま言葉そのものとして聞くことと、それを刺激に連想することを一瞬の時間差を持ちながら同時にやっていく。こういう作業をやっていることが、認知症の方とお話しする時にも役に立ってくるような気がする。

いつもより会話ができたり、いつもはぼーっとしているのにけっこうシャキッとした患者さんの態度に驚く付添いの方があまりに多い。私は老人精神医学は専門というほど学んだわけではないが、認知症に限らずお年寄りの方の対応がけっこううまくいってしまうのは、精神分析の訓練課程や臨床で培ったものが活きているのではないかと思う。その他にも精神分析を学んできた効用は多々ある。上記のことは一例である。精神分析は時代遅れだとか、訓練にやたら時間と金がかかるとか、批判はよくされるが、ピュアな精神分析以外の分野にも応用が効いたりよい波及効果が生まれるということは言っておきたい。そういう意味で精神分析家になろうという人以外で、自分の臨床能力を高めたいという人にも精神分析の実地臨床を学んだり経験を積んでもらえれば、精神科臨床や心理臨床に携わる方々のレベルアップになるのではと思う。
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研究会からの連想

昨日は精神分析の研究会だった。都内の会場に行く時に、突然の豪雨となり、一時、通りがかりのビルに入り避難した。雷も危険なので注意が必要だ。研究会ではいろいろと有意義な討論ができた。そのうちの一つの話題から連想することを以下に記しておこう。

一人の分析家が同じ家族の者を複数担当することは可能かという問題である。同じ家族とは、たとえば親子、夫婦、兄弟姉妹などである。私が精神分析および精神分析に基づく精神科臨床の研修を受け始めたのは数十年前になるが、その際には、同じ家族を一人が受け持つのは無理だからやめておくようにというのが上級者からの定型的なアドバイスであった。すなわち、別の分析家や治療者がそれぞれを担当するべきだということである。その当時は私も妥当なアドバイスだと思い以後もそれが定石だと思っていた。実際に、たとえば、ある人の分析を担当していて、経過中に自分の家族も担当してもらえないだろうかと言われ、お断りしたという経験はある。

私は後に豪州のメルボルンに行って精神分析の勉強を深めることになる。特にラカン派を中心として精神分析の研修と研究をしたのだが、ラカン派の精神分析家と討論するうちに、彼らが私が定石と思っていたことを気にしていないことに気がついた。たとえば、母と娘の分析家が同じだというケースについての話を聞いた時などは、一種の驚きを感じざるを得なかった。その後も、パリに短期間滞在した折に、私のパリ在の友人の知人の両親は昔、ラカンに精神分析を受けていた、などという話も聞いた。

他にもいろいろと同じ家族の複数の者の分析家が同じ人であるというケースを知り、決して特殊な例ではないということを知った。さて、自分が分析家として仕事をする場合にはどうなのだろうか?私がメルボルンに行ったばかりの時には、やろうとしても負担感が強くできなかったであろう。だが、日本に帰国してから、精神科および精神分析の臨床をする中で、以前のような抵抗感がなくなっているのに気づいた。実際、精神科の外来でも自分の個人の精神分析オフィスでも、同じ家族の複数名を担当することを経験している。私としては、そのことでのやりにくさやトラブルはさほど感じていない。

では、なぜ当初は定石と思われていたことが覆ったのだろうか?大きな要因として二つのことが考えられる。

一つは、分析というものは一人一人違うユニークなものであるということである。分析をやりきるというのは、その人の人生を生ききる、というのと同義である。たとえ親子、兄弟姉妹、夫婦であろうと、ある意味近い存在ではあろうが、人としてはまったく別の個体である。人は一人で生まれてきて一人で死んで行くのである。それと同じく、精神分析もまた別個のものなのである。このことが理屈ではなく本物の体験として得られているのか、それによって、同じ家族の複数名を担当できるかが決まってくる。そして、この、精神分析はそれぞれが違う唯一無二のものであるということをわかるかどうかは、個人分析の深まりとも大いに関係してくるだろう。

二つ目として、ラカン派の問題が関与しているかもしれない。かもしれない、とアヤフヤな表現になったのは、私自身、ラカン派以外の分析を受けたことがないから、あくまで推測で言うしかないからである。ラカン派精神分析は一般に分析家の「沈黙」が特徴とされる。分析を進めるのは分析家ではなく、分析主体(分析を受けている者)であるとされる。それぞれの分析家の個性はあるだろうが、一般的には他の学派に比べ、分析家からの介入が頻度とてしては少ない。セッションを時間で固定していないので、セッションを区切ることすら解釈であると言われている。セッションの間中、分析主体が話し、分析家の言葉はセッションの終わりを告げる時だけ、というようなセッションもあり得るのである。他の学派とも共通するような解釈を投げかけることもあるだろうが、少なくとも転移を直接的にあからさまな形で解釈するというやり方は好まれない。この点は、同じ家族に対して分析をするということが可能になるということに通じるのではないだろうか。たとえば、兄弟葛藤をそれぞれが持っているケースを仮定してみよう。分析のセッションで、兄は弟と張り合う話をやたらとする。弟は兄と張り合う話をやたらとする。ラカン派ではない学派では、おそらく同胞に対する気持ちを明確化したり、そこから見え隠れすることを直面化したりということになりそうだ。そういったことに焦点を当てて分析家もその話に聞き入るということになれば、あるケンカの双方からの視点を聞くような状況になり、分析家の方も混乱してくるのではないか?ラカン派の場合は、分析家が直接的な解釈を投与するのではなく、分析主体の側で解釈が自然と作動するように、解釈の契機あるいはヒントを与えるというような手法を取るとすれば、兄が弟がとあれこれ考えずにすむことになり、分析家の側が混乱するということはなくなってくる。

以上、ざっと思いついたことを記してみた。一つ付け加えたいのは、私は、同じ家族の複数の者の精神分析を担当することは可能である、と述べただけである。そのような要請や状況において、常に複数の分析を引き受けるべきであると述べたわけではない。それぞれの事例によって、別々の分析家としておいた方がよい場合もあるだろうし、あるいは、自分の感覚としてやりにくい場合には無理をして引き受けるには及ばないのである。
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夏です

8月となった。夏なのだが、今日はどんよりと曇っている。一方で蝉は鳴いている。気のせいかもしれないが、曇り空の下の蝉の声は侘しく感じる。電車はふだんより空いているいるようだが、大きな旅行かばんを持った人を目にする機会が多いのは、夏休みの季節なのかと思わされる。私は長期の休みは取らず、分散させて休もうと思っている。それにしても、知人でこのところ病気が悪化したり体調を崩したりという方がけっこうおられる。仕事や収入は大切だが、体調を整えることは優先的に考える必要があるだろう。とは言え、プレミアムフライデーというのだろうか、月に一度は早めに仕事を切り上げてなどという企画があるらしいのだが、みんなで同時に休もうと言っても無理があるのではないだろうか。それぞれの仕事によってペースは違う。レストランやカフェも人があふれるほど来てもらっても結局店に入れる人数は限られるし、できれば平均的にお客さんが入った方がよいのではないだろうか。しかも、従業員はそのタイミングで休みを取るのが難しくなりそうだ。そういう意味では、限定的にこの時にみんなで休みましょうというよりは、有休をそれぞれの人がもっと活用する方向性の方がよいのではないだろうか。

先日の日本ラカン協会のワークショップは発表も討論も充実していて勉強になった。フロイトのシュレーバー論文は以前、読んで自分の博士論文の素材にもなったのでいろいろと記憶が甦ってきて、討論の時にはコメントもしてみた。ヘルダーリンについては昔、ある精神病理学者の話を聞いたことがあったが、内容はほとんど忘れてしまったので、今回、発表を聞いて考えることが多々あった。次回、秋のワークショップは、今のところ10月15日(日)の予定だが、詳しいこと確かなことが決まれば、同協会のホームページに発表されるだろう。

8月か夏かということで連想と作文を始めてみたが、そろそろおしまいにしよう。いろいろやることもある。頂いた暑中見舞いの返事をやっと書いたので、後で投函しよう。さて書こうかと思うまで数日、そしてやおらハガキを探すまで数日、やっとのことで文面を書いたら、今度は切手がない。切手を買って、貼って。完成はしたのだが、まだ投函するところまでいかず手元にある。早い人なら1日、2日で書いて出すところを私は数週間。我ながら要領の悪さに辟易する。遅くなってしまい申し訳ないです。なお、仕事上の書類はこのようなことにはならずちゃんと書いております。



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気分転換か休養か

気分転換も休養もどちらも大事なことである。どんなに勤勉で体力のある人も、休みなく働き続けることは不可能だ。

気分転換というのは、たとえばスポーツをする、映画や美術を見る、音楽を聴く、気心の知れた仲間と飲んだりしてワイワイ過ごす、旅に出る、等々。何か自分の好きなことをやるということが思い浮かぶ。いずれにしても、何らかの活動をするということになるだろう。

休養となると、眠る、あるいは眠らないにしても横になって休むというように、積極的に動くというよりは静かに過ごすというイメージが浮かぶ。ぬるめのお風呂にゆったりつかっているというのも休養のうちの一つかもしれない。

気分転換がよいのか休養がよいのかは、その時の自分の状態によるだろう。疲れ切っている時に、いくらストレスがあったからと言って、動き回ってはますます疲れエネルギーは枯渇してしまう。そういう時はたとえ好きな趣味があっても、休養するべきであろう。逆に、仕事で気疲れしてストレスを感じている時には、ただ横になるよりも、たとえばカラオケに行くとかゴルフに行ってゴルフボールをポカっと打つなど、自分の好きな趣味をやって気分転換する方が気持ちをリフレッシュできるだろう。

どちらを選択するかは大事なことで、よろしくない方をやると、ますます疲れがひどくなってしまう。この程度のことは、わざわざ記事として書くほどのことではないのかもしれないが、わかっているようでいて意外と実行はできないことがある。ということで、自分用のメモも兼ねて書いておくことにしよう。

どうして今日はこういう連想になったかと言うと、私の知っているある老舗のジャズバーが今日で店を閉じることになったのだが、その最終日に店に顔を出さず、こうして私は今、自宅にいてのんびりしたり、アイロンかけなど用事を済ませたり、しばらく書けなかったブログの記事を書いている。行きたいのはやまやまだったが、このところいろいろとスケジュールが立て込み、今日は電車に乗ってまでその店に出かける気力と体力がない。もちろん、最終日なので記念すべき日だし、店主に挨拶もしたいし、行きたいのは山々なのだ。だが、自分の体力や来週のスケジュールを考えると、やはり家にいた方がよいという結論に達したのである。さて、今やっているのは、気分転換なのか休養なのか。はたまた仕事という程のものではないにしても用事なのか。答はそれらのまじりあったものである。

気分転換と休養の選択ということがテーマのようであったが、結局、私はどちらともつかず何とも分類しきれないことをなんとなくやっているのである。そう言えば、精神分析の理論と実践はどちらも重要であるが、一方のみで割り切れるものではない。このほんの数秒の連想も加えれば、勉強もちょっとはしたことになるか?いやはや、人生というものは曖昧なものだ。
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7月のラカンワークショップ

6月も終わりに近づいてきた。梅雨の中の雨の日曜日だが、今は雨が小休止しているようだ。

2017年7月23日(日)には、日本ラカン協会のワークショップが開催される。現時点では協会のホームページに掲載されていないが、精神病における<父>の問題を再考することにより「今日のエディプス」を考えるという企画になるとのことである。提題者は自治医科大学の大塚公一郎氏と京都大学の松本卓也氏で、司会は小林芳樹氏となっている。会場は東京の専修大学(最寄駅は神保町)で時間は14時から18時である。

とりあえず何か参考文献はというと、ラカンのセミネール3巻「精神病」とフロイトのシュレーバー症例の論文ということになるだろう。なお、松本氏はヘルダーリンについて言及されるらしいのだが、私はヘルダーリンについては名前くらいしか知らないのでそのテーマについての参考文献は思いつかない。

なお、ワークショップについての案内は間もなく協会のホームページに掲載されると思う。会員でなくても参加できるので関心のある方はお越しください。
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自然に

このところ暑くも寒くもなく乾燥しすぎでもなくじめじめでもなく、とおだやかなよい気候だ。しばらくすると梅雨になり梅雨が明ければ酷暑の夏なのだろうが、その前の一時の過ごしやすい季節。誠にありがたい。木々の緑は活き活きとしていて鳥のさえずりものどかに聞こえてくる。

来週末は研究会や学術団体の理事会がありスケジュールが詰まっているので、今のうちにのんびりしようと思っている。自然に目を向けると、人間も犬猫鳥と同じく生物であり、自然の一部なのである。ふだんは意識しないが、この基本的なことをまずは押さえておくことは必要なのではないだろうか。精神科の治療というと、薬だ精神療法だ心理教育だ、等々、ある方向へ向けて持って行こうとるするある意味恣意的な行為によって成り立ちがちだが、なんとなく自然にバランスを取り戻しその結果として体調や精神状態もよくなってくる、そういうイメージも大切なのではないかと思う。こういうことは理論化しにくいし、論文にもならないから、学問にはならず、書物にもならず、こうやって思いつきの如く書くくらいしか術はない。まあ、それがブログのよさかもしれない。

最近、買った雑誌、本を記しておこう。精神科治療学の最新号(Vo.32 No5 May 2017)の特集は「マインドフルネスー精神科治療への導入と展開」である。マインドフルネスは仏教の瞑想を応用したもので、このブログでも昨年取り上げた覚えがある。私は坐禅の経験があるので、マインドフルネスというものに一応の興味はあるのだが、あまりにマニュアル化しすぎているのでは、という警戒感はある。取りあえずはこの特集にざっと目を通してみたい。本の方は、「寄る辺なき自我の時代 フロイト『精神分析講義入門』を読み直す」(妙木浩之著、現代書館)である。精神分析講義入門はフロイトの考えをおおまかに把握する上でよい入門書だと思うが、このブログでもたしか数年前に紹介したことがある。今回、妙木氏の解説書が出たので、これを参照しながら、精神分析入門講義を再読するのもよいかなと思っている。精神分析の文献は膨大にあって辟易してしまう程であるが、基本を再確認して後は自分で思索した方がずっと臨床には役に立つかなと最近は思うようになってきた。

ということで、今までは本の紹介はタイトルに挙げていたが、自然という話の流れで、自然にこんなのを買いましたよと自然に紹介もしておいた。

のんびり休憩。のんびり読書。のんびり家事。のんびりその他。
しぜん。シゼン。自然。四善。
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いま・・

5月も残すところ数日。あと1か月で今年も半分を経過したことになる。早いものだが、感慨に浸ったところで何の意味もないので、やれることを着実にやっていくしかない。

草間彌生の展覧会はもう一度見ようと思いながら終わってしまった。しかし、ざっとでも見ておいたということで後悔の念はない。ミュシャの展覧会も丁寧には見られなかったが、滅多に見ることのできない作品を一応見ることはできたという点では満足している。仮に両方ともまったく見ていなければ、行っておけばよかったと愚痴をこぼしているのかもしれない。

人間、というか生物はいつ死ぬかわからない。いつこの生が終わってもよいように、いまを充実させて生きていきたいものだ。かと言って完璧をねらってしゃかりきになりストレスまみれになるのは、逆に充実した生とはならないだろう。

私がジャズ好きなのは今までもたびたび記事に書いてきた。昨年秋くらいからたまにジャズを歌うようになった。素人がプロの演奏と一緒に歌えるヴォーカルセッションという催しがあって参加するようになったのだ。きっかけは、生の音楽を聞きながらコーヒーを飲もうかとあるジャズバーでのセッションに立ち寄った際に、店主に歌ってみませんかと誘われたことだった。何十年もジャズを聴いてきたが、人前で歌うのは初めてだった。人前はおろか、私はふだんカラオケにも行かない。まったくのぶっつけである。なんの練習もしていないのだから、ボロボロに崩れても恥ずかしいことはないと開き直ったのがよかったのか、初めてにしてはけっこううまくいってしまった。いわゆるビギナーズラックといういうやつだろう。なんだ歌えるじゃないですか、とかほめられているうちに、その気になってきて、以後、ヴォーカルセッションに出かけるようになった。先日は、知り合いのジャズ歌手のライブの枠に誘ってもらって、数曲歌うということがあった。セッションは練習のために来ているお客さんが集まる場だが、通常のライブで歌うというのはそれと違って段違いに緊張した。直接お金を稼ぐわけではないものの、お客さんの前で歌うというのはこういうものなのか、と新しい経験になった。

客席にいるという視点とステージ側の視点は違う。もちろん、実際に見える景色も違う。一応、リハにも参加すると、どんなところに気をつけて準備をするのかということも知ることができた。そして、違う視点に立つと、今まで長年続けてきた聴くことの質の向上にもなるということがわかった。今まで見えていなかったことや聴けていなかったものが聞こえるようになるということだ。

このように考えていくと、ちょいと歌うようになりました、ということだけに留まらず、ものごとを見るということはどういうことなのかと一般化することにもつながる。還暦もそんなに遠くない年になって、新しいことを始めてみるというのも悪くない。歌詞を覚えようとしたり、声を出すということは、脳の活性化にもなりそうだ。人生何が起こるかわからない。
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こころの分析

私は長いこと精神分析に携わってきた。最初はおもしろそうだとか、勉強していけば何か役に立ちそうだとか、そういう思いがあってこの道に入った。精神分析という高尚そうな文字も魅力の一部ではあったのかもしれない。

ところが、数十年するうちに、漢字4文字並んでいる見栄えが、腕組みしてしかめっ面しているように思えてきた。勉強、研修が進み、自分の分析室を開こうと思った時には、この堅苦しい4文字をなんとかしないといけないと考えた。私は世間的には知られていないから、精神分析をベースにやると言っても、精神分析などというものは知らず、悩みがあるからどこかカウンセリングに行こうと思って訪ねてくる人もいるだろう。だが、そういう人が「精神分析」という言葉をどう思うだろうか?ここは「精神」を分析してくれるところなのか?分析ってなにやら難しそう。人によっては、精神を分析するなんて恐ろしい、なんて思ってしまう人がいるかもしれない。

そこで、いろいろ考えた挙句、決めたのが「こころの分析」という言葉である。私の知る限りは今までこの言葉を使った人はいない。英語で言ってしまえば psychoanalysis なのだが、漢字というものは一応日本語とはいえ輸入物である。ひらがなは漢字の影響があるものの日本で発明されたものだ。そういう意味では日本での精神分析ということでは、「こころの分析」という言い方の方がマシである。

そして、それ以外に、以前、神田橋條治先生のおられる病院で研修をしていて、その病院を辞する頃、神田橋先生から記念にと頂いた本の題名が「治療のこころ」であり、その思い出や神田橋先生から受け継いだものや宿題を自分なりに解こうと今まで考え工夫してきた諸々のこと、そういったものがごっちゃになって、「こころ」の中に含まれているのだろうと思う。

こころを分析する、という意味で使ったわけではないので、取り違える人がいるだろうが、まあそんなに厳密に考える必要もないだろう。言葉というのは完璧なものではないし、発信する人と受け取る人との間でのギャップがあるのは当然のことだから。今でも精神分析という言葉を使わなくてよかったなと思う。
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